「妻の母親」と恋におちて不倫!桓武天皇が激怒し、「薬子の変」につながったスキャンダルとは?
日本史あやしい話8
■妻よりも、その母にときめいてしまった平城天皇
それにしても、なぜ平城天皇が、異母弟である伊予親王の排除に動いたのか? それを理解するには、平城天皇と薬子の間柄から説明する必要があるだろう。
もともと、安殿親王(平城天皇)は、薬子の娘・珠名を妃とするために入内させたのだが、あろうことか、親王は娘よりも、その母・薬子にときめいてしまったから大変。珠名を妃とした後も、この義母を寵愛し続けたというから始末が悪い。もちろん、父・桓武天皇が激怒したことは言うまでもない。強引に薬子を東宮から追放して、二人の仲を裂いたのだ。
仲を裂かれた安殿親王は、父を恨んだ。恨みがつのって、ついには生霊が出現。「父を苦しめてやろう」という怨念の矛先が、父が寵愛する伊予親王とその母・吉子へと向かったというのだ。母子に祟りを成した挙句死に追い込んだことで、憂さを晴らしたというわけである。
もちろん、その真偽は定かではないものの、平城天皇がこの母子の怨霊を恐れたことは間違いなさそうだ。病弱だったということもあるが、この母子の祟りを恐れるがゆえに、わずか即位3年にして早々に身を引き、同母弟・神野親王(嵯峨天皇)に譲位。自身の病を、自らが死に追いやった母子の祟りによるものと信じてしまったからである。
その後、平城上皇は平城京に移り住んだものの、権力を手放すことはなかった。仲成・薬子兄妹に焚きつけられたこともあって、嵯峨天皇と対立(二所朝廷)し続けたのである。たまりかねたのは嵯峨天皇の方で、ついに堪忍袋の尾が切れた。嵯峨天皇が兵を動かしたところで、万事休す。
仲成は捕縛された上、射殺。薬子は自害に追いこまれてしまったのだ(薬子の変あるいは平城上皇の変とも。上皇は出家)。この騒動によって、今度は式家の勢力までもが低下したことはいうまでもない。
■こうして藤原北家の時代が花開いた
こうして南家と式家が次々と追い落とされ(京家はすでに勢威を失っていた)、後に残った北家だけが勢力を拡大することができたのである。房前から数えて4代目にあたる冬嗣(ふゆつぐ)が嵯峨天皇や淳和天皇(じゅんなてんのう)の信任を得て左大臣に任じられてからは、その子孫が代々、摂関の座を占めるようになっていった。
冒頭に記した道長は、その冬嗣から数えて7代目にあたる藤原北家嫡流であった。つまり道長は、他家と抗争する必要がなかった。彼が苦慮したのは、同じ北家内での勢力争いであった。
ともあれ、この同じ藤原氏族内における権力闘争、その犠牲となった伊予親王とその母・吉子こそ不運である。この母子は後に名誉を回復されたものの、神泉苑において御霊会が催されて霊が慰められたのは、事件から半世紀も過ぎた貞観5(863)年のことであった。何とも遅すぎる対応に、やるせない思いを抱いてしまう。躍進の陰に涙する人がいたことも、心に留めておいていただきたいのだ。
- 1
- 2